最近、Aloe bowieaと言うアロエを植え替えました。なので、A. bowieaについての記事を書いたりしました。
この論文ではA. bowieaを命名したHaworthは、南アフリカで植物を採取しキュー王立植物園に送ったJames Bowieの植物を記載したとありました。しかし、A. bowieaを採取したJames Bowieについての記述はそれだけでした。もとよりJames Bowieはキュー王立植物園が送り込んだ2人目のイギリス人プラントハンターでした。しかし、キュー王立植物園の派遣したプラントハンターと言えば初代のFrancis Massonが有名ですが、何故かJames Bowieについては言及されません。ですから、このJames Bowieの半生を振り返って見ましょう。参照とするのは、Gideon F. Smith & A. E. van Wykの1989年の論文、『Biological Notes on James Bowie and the Discovery of Aloe bowiea Schult. & Schult. (Alooideae: Asphodelaceae)』です。
2代目プラントハンター
Francis Massonは1772年よりキュー王立植物園のガーデナーとして働きはじめました。南アフリカへの派遣はJoseph Banks卿によりGeorge3世を説得して実現しました。Massonの忍耐力と熱意は誰にも負けないものでした。
James BowieはMassonの後継者として喜望峰に派遣されました。Massonが去ってから22年後のことです。Bowieはロンドンの種苗業者の息子でしたが、21歳近くになったBowieはキュー王立植物園に就職し、4年間ガーデナーとして働きました。1814年、Bowieと同僚のAllan Cunninghamは、植物の収集のためブラジルに派遣されました。その後、Bowieは喜望峰へ、Cunninghumはオーストラリアに派遣されることになったのです。
喜望峰へ
1816年9月28日、Bowieは「Mulgrave Castle」号に乗り、11月にTable湾に到着しました。到着から18ヶ月はケープタウン周辺の収集に専念しました。Bowieは主に園芸的な植物を栽培し、キュー王立植物園に送っていました。Bowieは1818年3月23日に南アフリカ内陸部への最初の収集旅行を開始します。この旅では西はケープタウンとCaledonから、東はKnysnaとPlettenberg湾までを探索し、海岸沿いのコースを通り、10ヶ月後にケープタウンに戻りました。Bowieは1819年1月14日にケープタウンに到着し、おそらくは3ヶ月ほどかけて収集した植物をキュー王立植物園に送るのに費やしました。
2回目の収集旅行
1819年4月9日、BowieはKnysnaに向かい、町の公証人であり開拓者でもあるGeorge Rexのもとに滞在しました。ちなみに、このRexはGeorge王子(後のGeorge3世)の嫡子であると言う根拠のない伝説があります。さて、RexはKnysnaで多くの博物学者を迎えています。BowieがMelkhoutkraalで採取した植物の1つに献名されており、Streptocarpus rexiiがあります。BowieはRexの同行により1820年1月22日にケープタウンに戻りました。
3回目の収集旅行
Bowieの3回目の旅は、Bushmans川、KowieとGrahamstownまで東に向かいました。時期的にはBowieが2回目の旅から戻ってすぐと考えられます。1820年3月9日にはKnysnaに来ていました。RexがケープタウンからKnysnaまで同行しました。約1年間続いた3回目の旅はさらに東へ向かいました。1821年1月15日にAlgoa湾から出航し、1月29日にはTable湾に到着し5月23日まで滞在しました。
4回目の収集旅行
1821年5月24日、Bowieはケープタウンから出航し、6月5日にAlgoa湾に到着しました。当時、あまり知られていなかった植民地の東部と南東部をより徹底的に探索し、North-East Cape州にまで進みColesberg付近で植物を採取しました。
Bowieは1822年6月1日から9月22日までRexと共にKnysnaに住み、やがて陸路でケープタウンに戻りました。
訃報
1820年6月19日、Bowieらを支援していたBanks卿が亡くなりました。その2年後、下院においてBowieのような収集家への支給額を半減させることが決定されました。これにより、CunninghumかBowieのどちらかを呼び戻すこととなりました。どうやら、Bowieの節制を怠る癖と、収集任務なや対する忍耐力の無さから、Bowieが呼び戻されることになりました。
1823年5月23日、アフリカ大陸部への4回目の航海から6ヶ月後、「Earl of Egremont」号に乗りケープタウンからイギリスに向け出航しました。St. Helenaで休憩した後、1823年8月15日にロンドンに到着しました。
帰還
Bowieはキュー王立植物園に雇われず、収集した植物標本を作る作業に費やしました。夜はパブでケープやブラジルでの冒険などを自慢したと言います。こうした飲酒のせいで、Bowieはアルコール中毒になってしまいました。イギリスで無為に4年間を過ごした後、自然史標本の収集家になるべく1827年4月に「Jessie」号で南アフリカに向かいました。
再び喜望峰へ
ケープタウンに移住してから約9年後の1836年までに、BowieはKloof StreetのCarl von Ludwig男爵のガーデナー兼収集家として雇われたようです。この契約は5年と続かず、1841年までに園芸指導や検査、集めた植物の販売でわずかな生計を立てていました。
Bowieは南アフリカに戻ってからの42年間、ケープで非生産的な生活を送りました。自然史標本の輸出をしていたVillet and Sonの事業を継ごうとして失敗し、ケープの植物園の学芸員になる希望も叶いませんでした。その後、ケープバルブの販売で生計を立てようとするも失敗し、苗床のための土地取得すら出来ませんでした。
晩年は健康状態が悪化し、慈善活動としてケープタウンのRalph H. Arderneの素晴らしい庭園の庭師として雇われました。James Bowieは1869年7月2日に亡くなり、ケープタウンに埋葬されました。Bowieが収集した標本は、今でも大英博物館とキュー王立植物園に保管されています。
最後に
以上が論文の簡単な要約となります。論文ではJames Bowieに献名された、Bowiea africana(=Aloe bowiea)の命名に関する議論が展開されますが、今回は割愛しました。
しかし、当時は移動手段も限られており、植物を収集するために僻地に入るプラント・ハンターは命懸けでした。東アジアで活躍した有名・無名のプラント・ハンターたちについて書かれた本を読んだことがありますが、病気で客死したり、中にはトラブルに巻き込まれて殺害されるケースもありました。大抵は道なき道をゆく冒険的なもので、時代的なものを加味すれば大変な辛苦があったでしょう。James Bowieの旅については分かりませんが、舗装された道路を何の苦労もなく自動車で移動したわけではないはずです。その苦労の結果はと言うと、正直あまり明るいものではありませんでした。しかし、Aloe bowieaの学名の中にBowieの名前は残っており、この名前はこれからも使われ続けます。さらに、Bowieの残した標本は貴重な資料として、将来行われる研究を支えるはずです。Bowieの後半生は無念であったかも知れませんが、その名前はいつまでも語られていくでしょう。
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この論文ではA. bowieaを命名したHaworthは、南アフリカで植物を採取しキュー王立植物園に送ったJames Bowieの植物を記載したとありました。しかし、A. bowieaを採取したJames Bowieについての記述はそれだけでした。もとよりJames Bowieはキュー王立植物園が送り込んだ2人目のイギリス人プラントハンターでした。しかし、キュー王立植物園の派遣したプラントハンターと言えば初代のFrancis Massonが有名ですが、何故かJames Bowieについては言及されません。ですから、このJames Bowieの半生を振り返って見ましょう。参照とするのは、Gideon F. Smith & A. E. van Wykの1989年の論文、『Biological Notes on James Bowie and the Discovery of Aloe bowiea Schult. & Schult. (Alooideae: Asphodelaceae)』です。
2代目プラントハンター
Francis Massonは1772年よりキュー王立植物園のガーデナーとして働きはじめました。南アフリカへの派遣はJoseph Banks卿によりGeorge3世を説得して実現しました。Massonの忍耐力と熱意は誰にも負けないものでした。
James BowieはMassonの後継者として喜望峰に派遣されました。Massonが去ってから22年後のことです。Bowieはロンドンの種苗業者の息子でしたが、21歳近くになったBowieはキュー王立植物園に就職し、4年間ガーデナーとして働きました。1814年、Bowieと同僚のAllan Cunninghamは、植物の収集のためブラジルに派遣されました。その後、Bowieは喜望峰へ、Cunninghumはオーストラリアに派遣されることになったのです。
喜望峰へ
1816年9月28日、Bowieは「Mulgrave Castle」号に乗り、11月にTable湾に到着しました。到着から18ヶ月はケープタウン周辺の収集に専念しました。Bowieは主に園芸的な植物を栽培し、キュー王立植物園に送っていました。Bowieは1818年3月23日に南アフリカ内陸部への最初の収集旅行を開始します。この旅では西はケープタウンとCaledonから、東はKnysnaとPlettenberg湾までを探索し、海岸沿いのコースを通り、10ヶ月後にケープタウンに戻りました。Bowieは1819年1月14日にケープタウンに到着し、おそらくは3ヶ月ほどかけて収集した植物をキュー王立植物園に送るのに費やしました。
2回目の収集旅行
1819年4月9日、BowieはKnysnaに向かい、町の公証人であり開拓者でもあるGeorge Rexのもとに滞在しました。ちなみに、このRexはGeorge王子(後のGeorge3世)の嫡子であると言う根拠のない伝説があります。さて、RexはKnysnaで多くの博物学者を迎えています。BowieがMelkhoutkraalで採取した植物の1つに献名されており、Streptocarpus rexiiがあります。BowieはRexの同行により1820年1月22日にケープタウンに戻りました。
3回目の収集旅行
Bowieの3回目の旅は、Bushmans川、KowieとGrahamstownまで東に向かいました。時期的にはBowieが2回目の旅から戻ってすぐと考えられます。1820年3月9日にはKnysnaに来ていました。RexがケープタウンからKnysnaまで同行しました。約1年間続いた3回目の旅はさらに東へ向かいました。1821年1月15日にAlgoa湾から出航し、1月29日にはTable湾に到着し5月23日まで滞在しました。
4回目の収集旅行
1821年5月24日、Bowieはケープタウンから出航し、6月5日にAlgoa湾に到着しました。当時、あまり知られていなかった植民地の東部と南東部をより徹底的に探索し、North-East Cape州にまで進みColesberg付近で植物を採取しました。
Bowieは1822年6月1日から9月22日までRexと共にKnysnaに住み、やがて陸路でケープタウンに戻りました。
訃報
1820年6月19日、Bowieらを支援していたBanks卿が亡くなりました。その2年後、下院においてBowieのような収集家への支給額を半減させることが決定されました。これにより、CunninghumかBowieのどちらかを呼び戻すこととなりました。どうやら、Bowieの節制を怠る癖と、収集任務なや対する忍耐力の無さから、Bowieが呼び戻されることになりました。
1823年5月23日、アフリカ大陸部への4回目の航海から6ヶ月後、「Earl of Egremont」号に乗りケープタウンからイギリスに向け出航しました。St. Helenaで休憩した後、1823年8月15日にロンドンに到着しました。
帰還
Bowieはキュー王立植物園に雇われず、収集した植物標本を作る作業に費やしました。夜はパブでケープやブラジルでの冒険などを自慢したと言います。こうした飲酒のせいで、Bowieはアルコール中毒になってしまいました。イギリスで無為に4年間を過ごした後、自然史標本の収集家になるべく1827年4月に「Jessie」号で南アフリカに向かいました。
再び喜望峰へ
ケープタウンに移住してから約9年後の1836年までに、BowieはKloof StreetのCarl von Ludwig男爵のガーデナー兼収集家として雇われたようです。この契約は5年と続かず、1841年までに園芸指導や検査、集めた植物の販売でわずかな生計を立てていました。
Bowieは南アフリカに戻ってからの42年間、ケープで非生産的な生活を送りました。自然史標本の輸出をしていたVillet and Sonの事業を継ごうとして失敗し、ケープの植物園の学芸員になる希望も叶いませんでした。その後、ケープバルブの販売で生計を立てようとするも失敗し、苗床のための土地取得すら出来ませんでした。
晩年は健康状態が悪化し、慈善活動としてケープタウンのRalph H. Arderneの素晴らしい庭園の庭師として雇われました。James Bowieは1869年7月2日に亡くなり、ケープタウンに埋葬されました。Bowieが収集した標本は、今でも大英博物館とキュー王立植物園に保管されています。
最後に
以上が論文の簡単な要約となります。論文ではJames Bowieに献名された、Bowiea africana(=Aloe bowiea)の命名に関する議論が展開されますが、今回は割愛しました。
しかし、当時は移動手段も限られており、植物を収集するために僻地に入るプラント・ハンターは命懸けでした。東アジアで活躍した有名・無名のプラント・ハンターたちについて書かれた本を読んだことがありますが、病気で客死したり、中にはトラブルに巻き込まれて殺害されるケースもありました。大抵は道なき道をゆく冒険的なもので、時代的なものを加味すれば大変な辛苦があったでしょう。James Bowieの旅については分かりませんが、舗装された道路を何の苦労もなく自動車で移動したわけではないはずです。その苦労の結果はと言うと、正直あまり明るいものではありませんでした。しかし、Aloe bowieaの学名の中にBowieの名前は残っており、この名前はこれからも使われ続けます。さらに、Bowieの残した標本は貴重な資料として、将来行われる研究を支えるはずです。Bowieの後半生は無念であったかも知れませんが、その名前はいつまでも語られていくでしょう。
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